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水産都市函館で計画されていた、水族館のはなし

 

本記事は弊著『函館のはなし』第三章の一部から加筆修正した上で抜粋した記事となっております。ご了承ください。

 

水族館がない街、函館

道南圏最大の都市、函館。

約24万人もの人が住む大都市であると同時に、函館山ベイエリア五稜郭など観光都市としても名を馳せ、道内外から多くの観光客が訪れています。2016年には東京からの新幹線が函館市のお隣北斗市まで延びるなど、観光都市としての注目度はより一層高いものとなっています。かつては水産都市として大いに栄え、衰退した今でも函館の海産物は人気を博しています。函館朝市などの賑わいを見れば一目瞭然でしょう。

 

そんな海と共にある港町である函館ですが、そういえば水族館がありませんね。北洋漁業で栄え、今も様々な海の恵みを最大限に享受している街にも関わらず、不思議ですね。
そう、函館市には一部に設置された水槽や展示はあるものの、水族館という施設そのものは存在しないのです。ですが、計画は何度もあり建設に向けた動きも進んだ時もありました。この節では“函館市の水族館計画とその顛末”について解説していければと思います。少しばかり長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。

 

水族館建設前史

時は北洋漁業に衰退の傾向が表れつつあった昭和30年代にまで遡ります。昭和27(1952)年、戦後の函館で初めて都市計画が策定されます。その『市勢振興第一次計画書』では、水産と港湾を両翼として道南の産業振興・経済発展を目指すという基本方針が立てられます。しかし北洋漁業に依存した経済構造そのものは戦前と殆ど変わりのないもので、混迷状態が続いている/非常に保守的/ただ現状維持と評されていました(北海道新聞社:1966)。ですがその経済発展の軸としている北洋漁業は昭和31(1956)年の日ソ漁業条約の締結によって少しずつ衰退の傾向を見せるようになります。

ここで、昭31の日ソ漁業条約について少し触れる必要がありそうです。

 

ポーツマス条約と日露漁業協約(明治38・40年)によりオホーツク海ベーリング海での漁業権が確立して以降、函館の街は北洋漁業の拠点として全盛期を迎えました。拠点という事ですから、海産物の恩恵のみならず水産加工や漁業関係者によってもたらされる街全体の消費活動の活性化など、函館の街全体が大いに賑わいます。戦時中の休業を挟み、昭和27(1952)年に試験操業を、29年には本格操業が再開となりました。近海でのイカ釣り漁業と共に函館の港を賑やかしました。

しかし北洋漁業、特に母船型のサケ・マス漁業は昭和31年の日ソ漁業条約の締結を機に一気に衰退することになります。漁業資源保護の為に制定されたもので、漁獲量が毎年割り当てられるというものでした。ほぼ無制限に獲っていたものが割当制に変わるわけですから、その影響は非常に大きいものでした。

その割当量も年々減少していく中で、昭和52(1977)年に米国とソ連が沿岸200海里での漁業権の主権を設定し、その範囲内でのの操業には交渉が必要となった事から、衰退が一気に加速する事となります。そして昭和63(1988)年、米国が沿岸200海里水域での操業を完全に禁止とした為、北洋漁業は遂に終焉を迎えました。長年水産業を中心に栄えた函館にとって、漁業の衰退は街全体の経済に大打撃を与えることになります。

北洋漁業に代わって賑わった近海でのイカ釣り漁業。今でも見られる漁船の漁火は函館の街のシンボルとなっている。

そんな中、昭和37(1962)年に函館・上磯・大野・七飯・亀田・銭亀沢の各市町村により「函館地方総合開発計画」が作成されます。北洋漁業の衰退により、経済体質の改善を余儀なくされた為に工業生産都市への転換と経済体質の改善を意図したものでもありました。それと同時に同年国が打ち立てた全国総合開発計画に基づく新産業都市*1への指定を睨んだものでもありました。
全国総合開発計画は戦後日本における地域の不均衡な発展・地域格差を是正を目的とし全国各地に開発拠点地域を設定し、産業の均衡発展をはかる政策であり、その中でも各地方の開発の拠点となる新産業都市への指定は函館市の発展みならず函館を拠点とした道南圏の開発が促進される事を期待したものでした。

函館市では工業化への具体的な計画として函館市港町から上磯町七重浜に至る地域を埋め立て、工業地帯の形成を構想していました。しかし函館市は国から新産業都市への指定を受ける事はありませんでした。指定には漏れたものの、函館市は引き続き工業化への道を模索する事になります。

数年の調査を経て、昭和41(1966)年、『函館地区開発基本調査報告書』として提出されます。現状の函館経済の問題点や解決に向けた地域開発の方向性を示したもので、主に

(1)「都市機能の充実」

(2)「港湾整備の方向」

(3)「農林水産業の主産地形成と近代化」

(4)「建設業の開発、港湾を利用した工業の開発、既存工業の生産性向上」

(5)「商業経営の近代化」

(6)「道南一帯の観光ルートの設定」

などが方向性として挙げられています。
この報告書は昭和44(1969)年に策定された国の新全国総合開発計画と連携しながら『函館圏総合開発基本計画書』として昭和46年から10か年の長期計画が纏められる事になります。この計画での目玉とも言えるビッグプロジェクトは上磯町の矢不来地区に約5㎢(!)もの埋立地を造成し、函館湾を臨海工業地帯にするというものでした。しかしこれには上磯町の漁民の間からの反対も凄まじく、昭和48(1973)年には計画の白紙化へと至っています。

函館市史』通説編第4巻 第6編より
函館島周辺の面積に匹敵する広大な埋め立て計画が存在した。

また時を同じくして第1次オイルショックが訪れたことにより、工業化による地域の発展の促進という計画そのものが破綻し、新たな地域発展の方針転換を余儀なくされるものでもありました。

 

大きく変化する世界情勢の中で函館市は函館圏総合開発基本計画を再び見直すことになり、昭和52(1977)年に「函館圏総合計画」を策定する事になります。経済重視の前計画に対し、生活を重視した計画となり、「住みよい魅力あるまちづくりをいかに進めていくか」「交通新時代に対応する施策をどう進めていくか」「豊かな経済基盤の確立をどのように進めていくか」などの新たな課題が挙げられています。
函館圏総合計画に則った整備が開始される中で、昭和53年度の予算案において“観光立市”のプランが登場します。昭和40年代以降函館を訪れる観光客は増加する一方で、従来の“函館山からの景観”に一辺倒であった観光の要素を、元町付近に広がる歴史文化遺産の活用や港湾部の景観などに拡張していく流れが興り始めます。函館港の景観整備という点ですが、元より北洋漁業で大きく栄えた経緯があるので、流通・産業の場としての機能が重視される一方で、港町の雰囲気や魅力を感じにくく、また一体的な空間構成がなされていない*2など観光地化するにあたっての課題も多くありました。

函館山からの夜景
当時は元町周辺の修景も進んでおらず、函館山が観光の中心であった。

時を同じくして北洋漁業の衰退による漁業基地としての役割低下やオイルショック以降の造船業の不振、そして前述した工業都市化の方針からの転換などにより、函館港は工業港から商業港などの新たな活用法が求められていました。

折しも、モータリゼーションの進展などから函館市の中心街は従来の元町・十字街周辺地区から函館駅前や五稜郭を擁する本町や梁川町、美原などの産業道路周辺に移りつつあり、西部地区の地位低下が危ぶまれていました。

 

ウォーターフロント計画と函館

昭和50年代以降、日本全国で港湾部の再開発が活発化するようになり、“ウォーターフロント計画”として各地で計画が建てられるようになります。神戸市のハーバーランドでの成功を皮切りに、日本全国にその動きがみられるようになります。

釧路フィッシャーマンズワーフMOO
ウォーターフロント計画による既存の港湾施設を活用した再開発事業の一つ

函館市においても、全国で活発化するウォーターフロント計画を前述の函館港の再活用と併せて新たな整備計画が模索され始めます。折しも青森と函館を結ぶ計画の青函トンネルの工事が進み、青森港と函館港を結んでいた青函連絡船があと数年で廃止…という時勢でありました。

昭和55(1980)年には対岸青森県との間で青函トンネルが開通した際に共同で“津軽海峡大博覧会”の開催の提案がなされ、翌56年にはその構想が発表されます。トンネル開通に併せて当時の日本でブームになっていた博覧会を開催し、両都市の交流の促進と新たな時代の幕開けを祝おうというものでした。それを契機とし、函館港のウォーターフロント計画もまた“歴史とロマンあふれる街”を目指して進むようになります。青函博開催の昭和63年までに青函博関連公共事業として周辺道路の整備や今日では“ベイエリア”と称される金森倉庫の複合施設化に伴う周囲の一体的なウォーターフロント開発などが行われました。特に、開発が行われるまでは漁港にあった一倉庫に過ぎない金森倉庫を今日にまで続く函館の一大観光スポットにした功績は非常に大きいものと言えます。

金森赤レンガ倉庫。中は改装されてショッピングモールとなっている。

またこの頃には函館港の浚渫工事で生じた土砂を埋め立てて造成された人工島“緑の島”も青函博の駐車場として併用を開始します。

青函博 函館EXPO'88公式記録』より
函館どつく跡の会場までシャトルバスと共同通船によるシャトル船が運行された。


青函博開催の同年、国の補助事業である「ポートルネッサンス21」と呼ばれる函館港の将来に向けた基礎調査が実施されました。運輸省による「21世紀への港湾」をテーマとした調査で、この調査を基に計画案が作成されます。

(1)弁天地区をマリンパークなどの海洋性レクリエーションゾーン

(2)末広・大町地区はイベント広場を中心とした生活・文化ゾーン

(3)若松地区をメモリアルシップや総合交通ターミナルビル、コンベンション施設などの交流・人流ゾーン

(4)港町地区を大型船埠頭などの物流・生活ゾーン

とし、それらを湾岸道路(=ともえ大橋:平成9年開通)で結ぶというものでした。(1)の弁天地区へのマリンパーク建設の計画は青函博のメイン会場にもなった旧函館どつくの函館造船所跡地の利用を考えたものでした。現在は市の海洋総合研究センターが建っていますね。
ポートルネッサンス21構想のもと、跡地の活用が検討される中で平成元年に大手ゼネコンである清水建設が跡地活用案として“函館ドックランドプロジェクト”として計画を提案します。20階建にもなるマリンホテルを中心にマリンリゾートマンションやマーケットホテルの整備を行うというものでした。

(⇒『はこだて財界』新春特別21(2)(259),函館財界問題研究所,1989-01.
国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-04-07))

dl.ndl.go.jp

しかし清水建設の提案は未成に終わります。ですが同年、札幌資本である北海道振興が土地の買収を表明し、翌年にはには敷地内に高さ200m(!)にもなる展望タワーや温泉、ホテルや海浜公園を整備し、マリンパーク化する計画を立案します。

 

(⇒『はこだて財界』21(7)(264),函館財界問題研究所,1989-06. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-04-07))

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これを受けて函館市は平成3年に港湾部の整備計画の改定が行われ、活用法が決まった弁天地区は水産・海洋交流ゾーンとして引き続き整備が行われる事になります。

 

函館における水族館整備(第一次)

ここからようやく水族館の話です。

平成3年、青函博の駐車場として利用されていた緑の島の整備が一旦は完了し、その活用法が模索される事になります。弁天地区と同様にポートルネッサンス21構想やウォーターフロント計画が函館港内である中で、“緑の島に水族館を建てよう”という計画が浮上します。ここに来てようやく具体化し始めた水族館建設計画ですが、元より水面下で検討がされていたようでした。
水産業で栄えた函館に水族館を建てる計画は幾度か検討されてきました。湯の川の熱帯植物園に併設する形で水族館を建設しようという話が出たこともありました。しかし全国各地にある水族館と比較し、道内にある他の水族館の経営が思わしくない点、それにより協力する企業が現れなかった事から湯の川での水族館計画は頓挫する事になります。そこで改めて計画されたのが緑の島での水族館計画という事です。

(⇒『はこだて財界』23(4)(290),函館財界問題研究所,1991-03. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-04-07))

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湯川の函館市熱帯植物園。温泉に浸かるサルの様子などが今も人気。

 

水族館の建設に際しては、すでに横浜八景島などで実績があり、函館七飯スキー場や函館大沼プリンスホテル、北海道カントリークラブなどの函館周辺の開発で縁があった西武鉄道グループのコクドが中心となり、進められる事になります。緑の島~旧桟橋~金森倉庫前と整備が完成した暁にはベイエリアのより一層の活性化がなされることでしょう。
しかし計画は思うように進まなかったようです。バブル崩壊による不況はもとより、水族館に付帯する複合施設でひと悶着あったようです。当初は水族館のみの計画だったものの、採算面を考慮した結果コクド側から付帯施設としてジェットコースターや観覧車を設けてはどうかと要望がありました。平成5年に開園した横浜・八景島シーパラダイスのような水族館を軸にした複合レジャー施設の建設を想定していたのかもしれません。

(⇒『はこだて財界』32(12)(407),函館財界問題研究所,2000-12. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-04-07))

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しかしこれにより事態は一変。まず国の港湾施設の一つとして整備された緑の島を所轄する運輸省から、ジェットコースターは営利施設なので無料で使う国有地の施設展開として好ましくないと指摘がなされました。結局緑の島の用地は市が買い取ることになり、一応の解決がなされました。

しかし次に観覧車の建設に関して景観論争が勃発しました。折しも西部地区でリゾートマンションの建設が進み物議を醸した景観問題も観覧車に待ったをかけます。高さが100mを超すような観覧車は函館山からの夜景に確実に影響し、風情ある景観が失われると反対運動がなされるようになりました。

中層マンションが建ち並ぶ現在の西部地区

 

こうなってしまうと水族館の計画そのものも疑問視されるようになってしまいます。またウォーターフロント計画そのものも、旧波止場/金森倉庫と緑の島の間に位置する海上自衛隊の函館基地隊を移設する必要がありましたが、そちらも中々上手くいきません。前述した北海道振興による旧函館どつく跡でのマリンパーク計画も、北海道南西沖地震により建物や岸壁が被害を受けたことにより構想が中断、平成9年の北海道拓殖銀行の破綻に始まる拓銀ショックの影響による金融不安などもあり、計画そのものも凍結せざるを得ない状況と、かつて描いた函館港の未来の姿の実現がかなり厳しいものとなりました。

平成13年11月、収益見込に難がある事や全国各地で第三セクターが破綻している状況を鑑み、緑の島でのアクアコミュニティ構想は断念する形となりました。2年後の平成15年にはマリンパーク構想に着手していた北海道振興が経営破綻し、函館どつく跡の活用法も完全に見失う形となったのです。これにて、青函博開催を契機に続いた函館市ウォーターフロント計画は、1期の青函連絡船や金森倉庫、旧桟橋の整備に続いた第2期の緑の島、函館どつく跡の整備は未完に終わりました。

 

函館における水族館整備(第二次)

しかしただでは終わらないのも港町函館の意地でしょうか。平成15年に市は水族館などファミリーレクリエーション施設の整備に向けた調査費を年度予算案に盛り込みました。再開の背景には「函館国際水産・海洋都市構想」の策定がありました。

水産・海洋都市構想は函館という地理的立地の優位さ、さらに水産や海洋に関する多くの学術機関や関連産業が集積している事を最大限活用し、新産業を創成するもので、産官学民の有志によって「函館海洋科学創成研究会」が設立されました。函館を水産・海洋研究の拠点都市として機能させる事を目的にしており、その計画の一環として拠点都市を形成するにあたっての地域再生計画が策定されました。観光と学術・研究機関の融合や水産・海洋と市民生活の調和が目標として掲げられる中で“海の生態科学館”や“国際水産・海洋総合研究センター”の整備が整備を目指す施設として挙げられています。函館市も平成15年に函館どつく跡の土地を買い取り、研究センターの設置による水産・海洋都市構想の拠点地とする方針を立てました。

地域再生計画の取組事例国際水産・海洋総合研究センターの整備(PDF)

https://www.chisou.go.jp/tiiki/tiikisaisei/osirase/050412/hakodate.pdf


これらの動きがある中で、市も上記の都市構想を推進すると同時に、市民がその研究の成果や産業について体系的に学ぶ施設、そして子供たちが知的好奇心を満たし、楽しみながら学べる社会教育的な施設の整備に向けて動き始めていました。平成17年に『海の生態科学館基本構想』が、財政状況や基本構想に対する市民の意見を取り入れた上で、翌年18年に『海の生態科学館基本計画』が策定されました。
この基本計画ですが、何やらかなりしっかり作られていたようです。

事業理念は「水に暮らす生物との持続的共存の実現」と定め、アクアコミュニティ構想で見られた観光・レジャー需要を主軸としたものから函館の産業や将来に向けた社会教育施設としての方向性が伺えます。それを基に「海を知る」「川を知る」「いのちを知る」「産業を知る」の4点を軸に展示が構成、展開される方針が定められました。飼育する生物は周辺海域に生息するイカやマグロやホッケ、コンブなどの他、大正年間まで毛皮の取引で函館の発展に影響したラッコやアザラシなどを軸にアンケートで意見が多かったイルカやサメ、さらには姉妹都市にゆかりのある企画展の形で紹介するコーナーも設けられる計画でした。
展示以外にも、小中学生を対象にした学習プログラムとして館内展示を活かしたイカやこんぶの飼育観察はもとより、館外での川歩き、森歩きのプログラムなども練られていたようです。また建設にあたっても、取水・ろ過・排水方法の検討や交通アクセスの検討、緑の島の地質調査や来場者予測、運営形態や収支見通しまで細部にまで及ぶ検討がなされました。

『函館のはなし』より
函館市企業部(2006)『海の生態科学館基本計画(案)』の掲載内容を抜粋

アクアコミュニティ構想で課題となった収益面での問題は海の生態科学館を観光施設から社会教育施設として位置づけを変える事によって問題をある程度回避し、また、平成16(2004)年の周辺3町1村との合併による合併特例債を建設費に充てる事で事業費も約14億7,400万円と比較的現実的なものになるなど、観光施設として計画が散ったアクアコミュニティ構想よりもより踏み込んだ、実現性の高い基本計画案が策定されました。

入館者数の予測は初年度に34万人、開業5年目と10年目にそれぞれ約3億円の追加投資を行った上で15年間の年平均入館者数を25万9千人とする予測を立てていました。入館者内訳も観光客が約10万人、それ以外の16万人を市内外からのレジャー、修学旅行、学習体験目的での利用予測を立てるなどより社会教育施設としての利用を重視したものになっていました。

海の生態科学館と緑の島の芝生広場の同時利用によるレジャー需要も想定されていた

実現の夢遠く

しかし、これだけ練られた建設計画も実行に移される事はありませんでした。収益面の難に加えて建設費に経費を加えた整備費用41億2,500万円、合併特例債などを利用した後の市の負担額は14億7,400万円と、函館市の人口減少で税収の低下や諸問題が積まれている中での多額の負担を出しての水族館整備を疑問視する声が多かったといいます。平成19年に行われた函館市長選にて建設が争点となったものの、現職と対立候補が共に任期中の建設は厳しい/反対と意見を表明し、その結果反対派の候補が当選となった為、函館市における水族館の建設計画は中止となり、以降現在に至るまで建設の話は出ていません。
水族館の建設は立ち消えになったものの市の函館国際水産・海洋都市構想では進捗があったようです。平成26(2014)年6月、旧函館どつく跡の敷地に研究拠点として函館市国際水産・海洋総合研究センターがオープンしました。研究施設以外にも一般開放のエリアが設けられ、函館近海の魚を中心に、調査船が持ち帰った珍しい魚も展示される事があります。水族館で成しえなかったの遺志を継いでいると言えるかもしれません。

 

また令和元年7月には駅にほど近い函館朝市にミニ水族館として水槽が設けられ、地元住民や観光客などに親しまれるなど、函館の海の魅力を知る取り組みは別の形で行われているようです。

函館朝市で展示されている水槽
設置から約5年が経過した令和5年にはリニューアルが行われ、“水槽どうでしょう”の看板と共に大泉市長がセレモニーを行った

おわりに

結果として立ち消えになってしまった水族館の計画ですが、広大な敷地の緑の島などにその計画があったという雰囲気を感じ取ることが出来ます。

やたら広い歩道

水産都市函館はこうしている間にも状況は大きく変化しています。棒二森屋跡やイトーヨーカドー函館店跡の開発、新幹線の函館乗り入れなど、何かと話題に尽きない印象です。そんな中で、函館を訪れた際にはこの街で水族館を建てようという計画があった事、そして水産都市としての意地と誇りと歴史があった事を少しでも思い出していただければ幸いです。

参考文献

青函トンネル開通記念博覧会実行委員会事務局(1989):『青函博 函館EXPO‘88公式記録』青函トンネル開通記念博覧会実行委員会.

 

函館財界問題研究所(1969-2008):『はこだて財界(第12巻7号~第32巻12号)』

 

函館市企画部(2006):『海の生態科学館基本計画(案)について(平成18年総務常任委員会提出資料)』函館市.

 

函館市史編さん室(1974-2007)『函館市史(通説編第1巻,通説編第2巻,通説編第2巻付録,通説編第3巻,通説編 第4巻,統計史料編,都市・住文化編)』 函館市

 

函館市都市建設部都市計画課(2011):「都市計画マスタープラン」
https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2014011700062/files/06_01chikukubun.pdf)(2023年12月25日閲覧)

 

北海道新聞社(1966):『都市診断 北海道篇』 誠信書房

*1:道内では道央地区の14市町村(小樽市手稲町、石狩町、江別市、広島村、恵庭町、千歳市苫小牧市白老町登別町、室蘭市、伊達町、虻田町)が新産業都市として指定されている。

*2:本格的に元町などが観光地化したのは昭和63年の伝統的建造物保存地区へ選定され、修景が進んだ以降のこと